<第66回>藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第13回ー

【第1章 私の坐禅は正しい坐禅?】
※ 今回は「第1章」の3回目です。

―― 自発性が一番大事 ――

伊藤比呂美(以下、比呂美) 一照さんは、すごく厳しいお寺で修業をしたんですよね。
藤田一照(以下、一照) そうですね。「油断したら命さえ落としかねない」安泰寺(あんたいじ)というところに六年いました。
比呂美 それは苦行じゃなかったの。
一照 そんなことはなかったんです。外から見ると苦行に見えたかもしれませんが、むしろ楽しかったですよ。人からは「よく耐えていますね」と言われましたが、「いえ、全然耐えていませんよ」と僕は答えていました。
比呂美 でも一般的に考えれば苦しいであろうその修行を、苦行でなくするためには、どうやって考えたらいいんですか。
一照 やっぱり自発性ですよ。嫌々やっていたらなんだって苦しいけど、修行は自分でやりたくてやってる。僕は自分から志願してそこに行きましたからね。たとえば麻雀を三日三晩くらい徹夜でやっちゃう人達いるじゃない。あれは食べたり寝るのを惜しむくらい、それほど面白いからやれるんでしょう? 自発的にやっていれば、苦しくても楽しんですよ。苦しいことも楽しいことの一部なのかな。たとえばスキーなんて、わざわざ重たいスキー道具を抱えて寒いところへ行くわけでしょう。でも嬉々としていきますよね。人間の力の出力、能力の発揮の仕方は、それがどこまで自発的であるかということにかかわっていると思う。たぶん荷物が重たく感じるのは、手だけを使って嫌々持とうとしているからなんです。でもスキーは嬉しいから、体全体が喜んで持つから重たくない。
比呂美 わかる気がします。でも坐禅で一番大事なことは自発性?
一照 そうですね。もちろん初めは人から勧められてもいいんですが、実際にやるときは自分の自発的な坐禅に切り替わっていないと、義務感で嫌々やる坐禅は機械的な坐禅になってしまう。たましいがこもらない。言われた通りにやって、意味もわからず足を組み、意味もわからず背中を伸ばし、意味もわからず呼吸を数えて、まるでロボットみたい。随意筋にはそういうことができるとしても、心というものは非常に微妙なものでしょう。それを一方的に坐禅だからこうしないとダメというふうに、合意なしに頭ごなしに外から動かそうすれば、反発を食らうのは当然です。その反発をまた押さえようとしたら、坐禅が戦場みたいになってしまう。僕は最初はそうやってました。そういうものだと思っていたから。言うことを聞かせたい僕と言うことを聞かない体や心のバトルが坐禅で、それに僕が勝つために修行するんだって。
比呂美 だって一照さんの場合は、やりたくて初めから入ったんでしょう。
一照 そうなんですけど、それでもやっぱりそうなりますよ。たとえば、僕がアメリカで坐禅の指導をしているとき、そこへ来るアメリカ人たちは、本をたくさん読んで「坐禅は素晴らしい。ぜひ俺もやらなきゃ」と思って、頼みもしないのに自発的に来る人たちばかりです。でもいったん坐りだすと、やっぱり、からだは痛いし退屈だし、自分が思っていた通りにはなかなかならない。本には「心は水のように澄み切って……」とか書いてあるけど、全然そうならなくて、反対に心には過去への後悔とか未来への不安、エロティックなファンタジーとかばかりがモクモク湧いてくる。実際はそんなもんですよ。正直に自分の坐禅を見れば「痛い、痛い」「早く終われ~」「眠いなあ」とか思っている自分がいるだけ。で、なんじゃこりゃ、となるわけ。
比呂美 うーん、みんなそうなんだ。こんなに雑念だらけで退屈だと思っているのは私だけと思っていたんですよ。
一照 さらに問題なのは「これじゃいけない。これは坐禅になっていない」と自分を責めだしたりすることです。そうなると、どんどん悪循環に入っていって、坐禅が自分で自分を攻撃する戦場になってしまうんですよ。たいていは、坐禅がいまくいかないのは自分の努力が足りないからだとか、自分がダメだからとかって、自分を責めるわけ。或いは今坐っている場所が悪い、寒すぎるせいだとか、先生の指導がうまくないから他に行った方がいいというふうに、外側を攻撃しだしてそっちに思考が流れていく、僕自身にもそういうときはありました。もっとましなところへ行こうとか悩んだことも、もっとちゃんと、手取り足取り教えてくれる親切なところがどこか他にあって、坐禅のコツとか手ほどきをしてくれる人がいるに違いないとか思い始め、自分なりに探したりもしました。
比呂美 自分を責めたりもしましたか。
一照 責めました。坐るたびに変なことばっかり考えているし。自分の体や心ってこんなにも一筋縄ではいかないものだということです。
比呂美 どうしたら、そうじゃなくなることができるんですか。
一照 なぜそんなことになるのか? 「坐禅は本来自発的じゃなきゃいけない」というのはわかっている、けれど、自分で自分に一方的に枠を押し付けている。それじゃ本当の意味での自発性じゃない。坐禅といわれるものを、「私」が「頭」で理解して、その理解したものを「体」や「心」に命令してその通りにやらせようとしている。ところが、心も体も生き物だから、条件が整う、頭の命令との条件が揃わないとその命令通りにはならない。その「条件が揃う」状態が自発性を発揮できる状態です。鈴木大拙(すずきだいせつ)が「肘(ひじ)は外には曲がらない」と言ったんですが、これは彼が不自由即自由(ふじゆうそくじゆう)と洞察したときの表現です。
 肘は必然的に外には曲がらない。曲がらなくてもいいんだと、その不自由な必然を素直(すなお)に受け入れるところに真の自由がある。そこで僕も苦労したわけです。坐禅というのは、こっちの思い通りにならない自分の必然に直(じか)に向き合いましからね。不自由な必然を受け容れないで、自分勝手な幻想の自由を押し付けようとしてけんかしていた。

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