<第67回>藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第14回ー

【第1章 私の坐禅は正しい坐禅?】
※ 今回は「第1章」の4回目です。

―― 続けていると風景が変わってくる ――

伊藤比呂美(以下、比呂美) 前に(1月22日掲載の「坐禅でワープ体験」)、私は「坐禅ですごくいい思いをした」というようなことを言ったけれど、そのわりにはそのあと続けていないんです。やっぱり苦痛なんです。
藤田一照(以下、一照) ほとんどの人がそうだと思いますよ。だから皆で一緒にやるんです。そうしたらイヤでもやらなきゃいけないから。僕の師匠は、そっちの方があたりまえだぞといってました。嬉々として坐禅するようなのはどっかおかしいって。それでも坐るときは他の誰でもない自分が坐っていますからね。坐るところでは強制されても、坐ったらちゃんとその気で坐禅しなさいということです。何よりも坐禅を好むという人がいてもおかしくないし、それはそれで素晴らしいことだけど、普通はなかなかそんなふうにはいかない。そこまで坐禅に強い動機づけがあるのというのは、何か変なもんに取り憑(つ)かれているんじゃないかと思った方がいい、というぐらいのことを師匠は言っています。
比呂美 お坊さんたちは生活の中に坐禅が普通にあるでしょう。だけど私みたいな俗世にいるものは、そこでどうやって坐禅に向かえばいいのか。
一照 坐り合う仲間を探すんですね。坐れるように自分を追い込む環境をつくる。アメリカでも結構そういう人たちが居て、定期的に自分の家の居間を開放して、近所の人が集まってホーム坐禅会みたいに坐っている。
比呂美 そうしたら、そこで人付き合いというものができてくるでしょう。それが面倒くさい。私は、基本的には自分一人で生きていたいみたいなところがある。
一照 だけど、自分一人ではなかなか坐れないでしょう。
比呂美 できないできない。絶対にできない。
一照 坐るだけのための仲間を作ればいいんじゃないですか。そのためだけの仲間、坐禅が終わったらまた別れればいいんだから。
比呂美 面倒くさい。それじゃダメですかね。
一照 ダメといったって、そうなんだからしょうがないね。まあ別に坐禅しなくても死なないからね。無性にまあやりたい時節が来るまで待つって手もありますよ、僕は最終的には坐禅はやりたい人だけやればいいと思っているので。
比呂美 やりたいんですよ。だから、坐禅をやったら楽しくてしょうがないみたいな、坐禅オタクみたいな、そういう状態に自分を持っていったらできるのかなと思って。
一照 そうすると、坐禅中毒だね。坐禅は中毒したらいけないよ。快感のために坐禅をすることになるから。それじゃ麻薬なんかと変わらないじゃないですか。道元さんは「坐禅のために坐禅をするんだ。それ以外の他の何かのためじゃない」と言ってますよ。
比呂美 だとするとなかなかできない……。
一照 だけど、最初はそうかもしれないな。僕も、いろいろなところへ行ってやっていましたね。なんか妙な手ごたえを感じちゃってね。当たり前になってくるというか。そして、坐禅と付き合っていると、いろいろ風景が変わってきますよ。最初の一年と、二年目と三年目でどんどん変わっていく。同じように坐禅していてもね。生活自体も変わってきますから。
比呂美 一番下の娘は九歳から合気道をやっているんです。最初の数年はくにゃくにゃ動くばかりだったけど、高校生ぐらいになって、やっと何をやっているのかわかってきたって言うんです。10年ぐらいたった今は楽しくてしょうがないらしい。坐禅も、10年くらいしてふっと次の山を越えるのかも。
一照 僕も「まず黙って10年坐りなさい」って言われたなあ。自動的にはならないだろうけど、ラッキーならそういうことになるだろう。
比呂美 自動的にはならない?
一照 間違えたやり方であれば、いくらやってもダメでしょう。コップに入っちゃったハエが、向こうが見えるからって、いくらガラスに当たっても通り抜けられないでしょう。上を向かないと。何かの転換が起こらないと頭打ちです。
比呂美 でも、何があれば、上を向けるんですか?
一照 そういうふうに導いてくれる人がいいタイミングで現れるか、自分でふと気が付くかだな。ふと上を見るとか、こっちだよと言ってくれる人にたまたま出会うとか。それはやはり機縁が熟さないと。あらかじめ計画に組み込めるような方法なんかない。
比呂美 それってダメなものはダメで、うまくいくものはうまくいくっていうこと?
一照 みもふたもないけれどそういう世界ですね、これは。でも、それでもやむにやまれずそっちへ歩いていく。そういうのが一番深いところでの自発性かなあ。うまくいけばうまくいくけど、ダメなものはダメ、それはしょうがないね。縁がなかったというしかない。それが民主主義とか平等とか公平さとか、そういう我々の常識的価値観と全然違うところですね。基本的には条件が整わなければ物事は起こらない。僕らは自分の力で何かを起こそうと努力するんだけど、その努力自体がそれが起こる条件が整うのを阻害していることがありうるわけですよ。

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