藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第16回ー を受けて

【第1章 私の坐禅は正しい坐禅?】

―― ボディーワークとの共通点 ―― から想をえて

 筆者である私・鳥羽は、この藤田一照さんと伊藤比呂美さんの対談集『禅の教室』からいろいろ学ばせていただくことが多く、大変感謝しております。その一つが、今回のこの「ボディーワークとの共通点」です。
 「坐禅を始めよう」というとき、誰しもがその初めに先ず坐り方を習うのですが、そのときだいたいが「姿勢」を正すことから入ります。そして呼吸。「坐る」ということを知らずに坐禅を始める人はいないでしょうけれど、その予備知識として写真などで見る、あの厳粛な雰囲気の中で、姿勢を正され、身じろぎもせずにひたすら坐る、そして警策を持った助警さんが時折回ってくる。ただそれだけで既に、心も、したがって体も緊張した状態で始めることになります。
 ある程度、坐禅を長年やってきている私は、周りの方から指摘されたり助警さんにおののいたりすることはさすがに殆どなくなりました。従って「坐る」ということへの緊張は特にないのですが(それとは別の「これから坐禅に臨む」という心構えとしての緊張というのはありますが)、でも、このセクションを読んで、私のこれまでの坐禅に向かう「心構え」を正さなければいけない、と大変反省させられました。
 その大きな例として、静坐会に見えられる新到者(以前も書きましたが、禅の世界では新しくチャレンジされようとする人たちをこう呼びます)の方に対して、当然にまず「坐り方」からお教えしますが、‟坐るだけ”ですのでさほど難しいことではないのですが、それでも「最初が大事」ということでいろいろレクチャーをしてしまいます。それは、まさに「坐り方」ですのでその定型的な型があるのですが、それはふだんの日常生活の中ではまずやったことがない、これまでの人生の中でも経験したことがない、そういったものなので大半の人は程度の差こそあれ‟緊張”を迫られます。それは取りも直さず「身体を固くする」ことにつながります。そして、一定の時間が終わった後、多くの方が「足がしびれた」とか「足が痛くてしょうがなかった」という感想を言われます。せっかくの坐禅の時間、チャレンジの時間なのに「足がしびれた」、「痛かった」で頭がいっぱいで終わってしまってはあまりに悲しいことです。
 道元さんは「坐禅は安楽の道である」といわれたそうですが、「ボディーワークとの共通点」の本文の中で一照さんが、
 「坐禅が苦行になってしまう理由の一つは、坐禅に相応しい心身の使い方をしていないからなんですよ。日常生活で身につけた雑な体の扱い方で、雑に坐るから余計な苦痛を味わうことになる。それを我慢するのが、耐えるのが修行だなんて思いこんでいる・・・」
 という部分に気付かされました。それともう一つ、アメリカの合気道の道場で、一照さんが何人もの大男たちを相手にした後ヘトヘトになって坐禅堂で坐ったときに、
 「合気道の猛稽古であらゆる関節が伸ばされて、余分なエネルギーを全部使い果たしていたのか、坐っている自分の体が透明になったような感じがした。自分というよけいな意識が消えて、ただ出来事だけが起きているというか・・・」
 そして、
 「・・・使い果たしていたのと、それからいちばん大きいのが、僕が坐禅に何も期待していなかったからじゃないかと。こんな疲れているから坐ったら寝ちゃうかもしれないけど、坐禅の時間がきたからしょうがない。寝てもいいからとにかく坐ろうと思って何の期待もせずに坐ったら、え、頑張ってもいないのにこんなにちゃんと坐れていいの? という感じで」
 とおっしゃられているところです。私も、これに似た感覚は理解できます。ここから引き出されてくる事は、坐禅をする際に、体中の筋肉と関節を解きほぐし、如何に体をリラックスさせた状態で臨むか。無論、坐禅には一定の「型」があり、それを逸脱してはいい坐禅には到達できません。けれども、禅宗1800年の歴史のなかでいろいろ試され、試行錯誤の末に「これぞ三昧の境地に至る最善の方法」として現在に伝えられており、それは一照さんも指摘される通り「難行苦行の道」ではなく「安楽の道」であるはずです。かといって、毎回「ヘトヘトになって」坐るわけにはいきませんが。

 それともう一つ、やゝ話頭が飛躍するかもしれませんが、昨年93歳で亡くなられた、上智大学の名誉教授で神父でもあられた門脇佳吉さんについてですが、この方はカソリックの神父であられると同時に禅も極められ、大変高い境涯に達せられた方でもあります。この方の著書に『公案と聖書の身読 一キリスト者の参禅体験』という本があります。内容の詳細は省きますが、この中で神学者であられる先生は、「坐禅の参禅体験をすることによって、聖書の中の自分がこれまでどうしてもわからなかったことが次第に氷解していったことだ・・・」というようなことをおっしゃっておられました。それは、非常に雑駁な表現で恐縮ではございますが、「(キリスト教信者にとって『祈り』というのは、『神との対話』をも意味し、非常に重要な作業でもあります)祈る時に、聖堂でひざまずいてひたすら祈る・・・」、「坐禅ならば体全体を使って公案と対峙する、それによってあるとき見解が表出してくる。キリスト教でも、ただじっと動かずに祈るのではなくて、ただ聖書を読んで頭で考えるのではなくて、体全体を使って、神との対話をし、聖句と向き合うことによって新たな発見がある」というようなことをおっしゃられておられます。我々禅を志す者にとっても、大変深い含意を感じるお話です。そういえば、ヨーロッパ、特にドイツやアメリカの修道院の神父さんたちの中に「坐禅」をやられている方々が多く居られると耳にしました。
 
 坐禅というのは「体全体を使ってやるものである」ということは、昔から言われていることではありますが、ややもすれば形にこだわり、「坐禅とはこういうものだ」との決めつけで体をこわばらせ、窮屈な坐禅がしばしばみられます。リラックス!リラックス!

カテゴリー: ブログ, 輪読会 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です