藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第17回ーを受けて

【第2章 正しく坐るのも一苦労?】

―― 人間の体も「一即一切」 ―― から想をえて

 本章も、私・鳥羽が『禅の教室』からいろいろ学ばせていただいたところです。
 各地の禅宗のお寺や、私どものように在家の坐禅修行者の集まりでは、一般の方々を対象とした坐禅会、静坐会が各所で催されております。そういう所では新到者(新たに坐禅をしようとする人)に対しては、ほぼ必ず「坐り方の指導」を致します。それは坐禅をするに当たっては「3つの大事な要素」があるとされていますが、その3つとは「調身(体の体勢を整える)」、「調息(呼吸を整える)」、「調心(心を整える)」となっています。これは調度、人の体に必須の三大栄養素に似ています。それゆえどうしても、初めての人には「調身」、すなわち坐り方を指導することになります。
 ここで藤田一照さんは、「事前に‟定型の形”があって、その坐る人の体をそれに‟合わせる”ことが決していいことではない」と指摘されています。それはそうです。「坐禅の坐り方」なるものは、ふだんの日常生活のなかでは決してすることのない坐り方であり、それまでの人生のなかでも恐らく初めてやる坐り方でしょう。それなので、ほとんど、いえ恐らく全部の人が、初めてのときは精神的にも緊張を強いられ、それと共に体の各所がこわばり、往々にしてそれが「足の痛み」につながっていき、挙句に「坐禅から離れていってしまう」原因にもなっているかもしれません。それでは何にもならない、角を矯めて牛を殺すことになります。前回も採り上げましたが「坐禅は安楽の法なり」の道元さんの言葉からすれば、決して望ましいことではない、と一照さんは指摘しています。
 ところが、初めての新到の方のほとんどの方は「坐るのは初めてです」とおっしゃいます。坐ることが初めての方、坐禅体験が初めての方に、坐禅の三大要素の一つのしての「坐り方」のレクチャーは不可欠です。何と言っても坐禅は‟坐ること”の世界なのですから。それを抜きにして坐禅は成り立ちません。
 ここで私が一照さんから学ばせて頂いたこととは、私の狭い認識ではございますが、これまでにたくさん出されている禅の入門書や禅を紹介する書物のなかでそのどれもに共通する「坐り方」が紹介されておりますが、多くの坐禅会、静坐会で、それを金科玉条のごとくにして新しい方に勧めるのが常でございます。かく言う私も、紛れもなくその一人でございました。それが、これほど禅が身近になりながら、一般の人々が坐禅の出会いを求めてもほとんどの人がそれを全うできずに、ひとり坐禅の世界が別世界のものになってしまっている。坐禅の坐禅たる存在は、孤高を保ちその幽玄さを見せつけるものでもなく、また、いかな「狭き門より入れ」ということはあったとしても、あたら門戸を狭めることでその存在意義を高めることではないのではないか、と思うのです。
 坐禅とは極めることばかりではなく、市井の人々が、その日々の生活の中で味わい、一人ひとりがその人生の中に取り入れ、その先の道がいかに長くとも、夫々の生きていく人生の中で味わっていくものなのではないでしょうか。

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