<第32回>ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント33 - ネルケ無方

―― 〔その3〕宝くじが当たったら ――

はなてばてにみてり

 これは、道元禅師の『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』の中の「弁道話(べんどうわ)」にある言葉です。
 ネルケ無方さんの文章を、要約するまでもないのでそのまま掲載します。

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 安泰寺(=ネルケ無方さんが住職をされている兵庫県の山の中のお寺)には檀家が一軒もないので、決まった現金収入がありません。自給自足のため、食べることに困りはしませんが、電気代、農機具の燃料、そして宗派への「上納金」(正確には「宗費(しゅうひ)」といいます)の支払いのために、春や秋の彼岸(ひがん)の時に托鉢に出かけることがあります。
 「宝くじが当たったら寄付しますので、ヨロシク!」
 托鉢中もいろいろな出来事がありますが、こういう面白いセリフを言われたこともあります。賞金の何割をくれるのか、私はわくわくしましたが、その後まとまった寄付がなかったので、くじは外れてしまったのでしょうか。それはこちらの修業不足で申し訳ありません。
 さて「宝くじが当たったら……」と、多くの人は夢を見ています。しかし、本当に宝くじが当たったら、どうするのでしょうか。幸せになれると思っているのでしょうか。
 私は宝くじが当たったことがありません。そもそも、くじを買ったこともないので、当たるはずもありません。くじを買う人の気持ちも、ましてや大当たりをした人の気持ちもわかりません。ただ、聞いた話では、私の国ドイツでは宝くじに当たった人にまずカウンセリングを受けさせるそうです。なぜなら宝くじに当たって人生を台無しにする人が続出しているからです。
 ある人が海岸沿いにハーバーつきの豪邸を買い、ヨットを買い、残った金でポルシェやベンツを何台も買い大金を全部使い果たしました。しかし、もとの安月給にもどるとその固定資産税すら払えなくなりました。彼の人生は皮肉にも、自己破産に終わってしまいました。
 ある人は仕事を止め、友達を呼んで毎日パーティーをしました。やがて金を使い果たすと、友達は離れていってしまいました。ある人はお金を全部貯金し、将来のためにとっておこうとしました。金を借りに来た友人には一銭も分けませんでした。結局、周りの人に疎まれ孤独な人生を送ることになりました。どうやら、宝くじが当たって幸せを手に入れた人はあまりいないようです。
 では、宝くじが当たった場合には、どうしたらよいのでしょうか。専門のカウンセラーによれば、当たったことを誰にも言わず、以前と変わりのない生活を送るのが最善だそうです。それなら最初から宝くじが当たらないほうがいいはずなのですが…………。
 宝くじがあったたら、一体何ができるのか。われわれの夢をかなえ、本当に幸せな人生を送るためには、一体何が必要なのでしょうか。
 ハリウッド映画などでは、よく「アメリカン・ドリームをつかむ」といったようなセリフを聞きます。アメリカン・ドリームとはどうやら、幸福の追求のことだとか。私はまったく知りませんでしたが、日本人はだれでも幸福追求権を持っています。憲法十三条にはそう規定さえているのです。フランスには「自由・平等・博愛」、ドイツには「統一・正義・自由」があげられていますが、幸福追求の権利を約束しているのは米国と日本だけです。すばらしいことではありませんか。
 しかし、ちょっと待てよ、そもそも幸福とは何でしょうか。いかに幸福を追求すれば、幸福になれるのでしょうか。そこをクリアしなければ、追及ばかりしていても意味がありません。「幸せになりたい」という人に「あなたのいう『幸せ』って何ですか」と聞くとたいがいは「わからない」と答えます。
 「わからないからこそ、幸せになりたい」
 ところが、幸せはカネや健康や恋と一緒で、握ってしまえば逃げてしまうのです。追求すればするほど、遠のいてしまうのが幸福です。幸福追求権なんて、最初からパラドックス(逆説=「急がば回れ」のように一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を言い表している表現)です。
 そのからくりからの脱出を、道元禅師は「弁道話」という正法眼蔵の巻の中で示しています。

 はなてばてにみてり。
 (手放したとき、手を満たす)

 手を放してこそ、そのものが手のひらの中で輝いて見えてくるのです。
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 前回の「〔その2〕少欲知足という生き方」の内容と、非常に共通する内容です。
 「幸せ」の基準あるいはその根拠は、決して‟もの”または‟金銭”では測れない、そのことは、多くの人が理念としては分かっておられるのではないでしょうが、なかなか、今生きている実社会の生活の中で実感し、活かすことは大変難しいことだというのが現実でしょう。
 でも、今の世界の中で、あるいは、歴史上でもそのことを感得し(感得させられ)ている人が少なからず居るのも紛れもない事実です。しかし、ここでネルケさんは更に一歩すすんで、「幸せになりたい!」(幸福追求)というその自己欲求そのものを「手放しなさい」といっております。一見、禁欲的という言葉が即座に連想されますが、「あなたの存在そのものが既に『幸せな‟存在”』なのですよ」ということを実感しなさい、ということではないでしょうか。
 昨年の暮れの30日に急逝されたノートルダム清心学園理事長の渡辺和子の、ベストセラーになった著書「その場所で咲きなさい」にも通底するものがあるように思えるのですが。
 

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